次は…?

だから何って言われそうなニュースですが…
共産党元議長の宮本顕治氏が死去
 共産党の委員長、議長などを務めた宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、都内の病院で老衰のため死去した。98歳だった。
 親族で密葬を行い、29日投票の参院選後に党として葬儀を行う。
 共産党を39年にわたって指導し、戦後日本の共産主義運動を主導した宮本氏の死去は、共産党の一つの時代の終わりを象徴するといえる。宮本氏はこの数年間、公の場には姿を見せず、東京都渋谷区の東京勤労者医療会代々木病院に入院するなどしていた。
 同党は、不破哲三・前議長と志位委員長のもとで進めた現実・柔軟路線が定着しており、党運営や路線への影響はないとみられる。宮本氏は山口県出身。戦前から共産党員として活動した。1933年、治安維持法違反などで検挙され、終戦まで12年間、獄中にあり、転向を拒否し続けた。
 50年代前半、同党は路線をめぐって分裂し、主流派が極左冒険主義に走る中で宮本氏は非主流派だった。だが、55年に宮本氏は党執行部に復帰、58年に書記長、70年に委員長、82年に議長と要職を歴任した。以降、97年に議長を辞任するまで党を指導し続けた。国会議員としては、77年に参院全国区で初当選し、連続2期務めた。
 61年に党綱領を確定するにあたり、外国の共産党とは一線を画す「自主・独立」路線を掲げた。66年の中国共産党の毛沢東主席との会談決裂を機に、67年に中国共産党との関係も断絶(98年に回復)した。
 宮本氏はまた、民主主義革命と社会主義的変革を経て、社会主義・共産主義体制を目指すとする「2段階革命論」を主導したことでも知られている。「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」という言葉に言い換えるなど、イメージチェンジも図り、70年代の党勢拡大に貢献した。
 宮本氏が倒れたのは、94年6月末、一過性脳虚血発作だった。97年9月の第21回党大会で高齢を理由に議長を引退、実権を持たない名誉議長として党務を離れた。2000年の第22回党大会で名誉役員となり、名実ともに影響力を失った。(以下略)(読売新聞
言いたいことが少しあるんで、1つずつ行きますかね。
 
日本を赤化させるためにソビエトからカネを貰ってた人ですね。
ハマコーに人殺しと言われた人ですね。
 
つか、共産主義者の葬式ってどんなもんなんでしょうかね?
まさか坊さん呼んで、戒名貰って、寺の墓地に骨入れるような真似はしないでしょうけど。w
 
この間は宮沢が死んだわけで、次は誰かな?
中曽根か村山かな…首相経験者に限定するとしたら。
 
 

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